養國寺の仏さま
本尊 阿弥陀如来
鎌倉中期の作と推定されるが江戸時代の修理のおりに銘板を削除してしまい現在確証は無い。
別名 「箕の掛け本尊」と呼ばれている由来は、 ある日泥棒が本堂に入り本尊様をまんまと盗み出し、担いで逃げたのはよかったけれどだんだん重くなってきてとうとう我慢を仕切れなくなり、恐ろしくなった泥棒が本尊様をその場に下ろし、着ていた蓑を本尊様に掛け逃げていったと言うお話で、今でも寺津の北部に「寺津町美之掛」の地名がのこっている。
脇仏 観音・勢至両菩薩
勢至菩薩は合掌し、観音菩薩は蓮台を手に・・・ 衆生救済のために、今にも立ち上がりそうな姿勢と表情にはえもいわれぬ躍動感がある。
また三尊全てに通じて、その端正で気品のあるお姿には目を見張るものがある。
釈迦如来 涅槃像
その他の仏像
祥草庵(納骨堂)本尊阿弥陀如来 坐像
伝 慈覚大師御真作(台座銘文に明記)
解体修理 平成16年
その他の所蔵仏尊像
・ 地蔵菩薩像
・ 不動明王像
・ 弁財天像
・ 稲荷像
・ 秋葉 三尺坊大権現像
養國寺の祖師像
その他の所蔵祖師像
・ 東照大権現 御影
養國寺の寺宝
養國寺蔵 仏涅槃図 ( 西尾市 指定文化財 )
涅槃図はクシナガラの跋提河のほとりの沙羅双樹の下で入滅する釈尊を「大般涅槃経」「魔可魔耶経」等、涅槃経典を典拠として絵画化したものである。 養國寺本は、その表現方法から南北朝時代の制作と推定される。
図様
宝床台に横たわる釈尊は、宝床右側にみせる視点から、両腕を体側につけ両足も揃え全身を伸ばして描かれており、また、それを取り巻く会衆の面貌、服装にも鎌倉時代以前に見られる古い形式の涅槃図の特徴を表す。
〔詳細A、B 参照〕
しかし又、画面の大部分に広がる会衆に加えて、画面下部に多くの動物を描き、天から飛来する仏母 摩耶夫人の乗る雲もスピ-ド感を意識した形状となり、やや騒然とした印象は新しい形式の特徴を示しており、新旧折衷形式とでも言うべき比較的珍しいものとなっている。
〔詳細C 参照〕
表現技法
人物の面貌、服装、に暖色系の明るい色彩など古風な感覚が用いられるが、羅漢肉身部などに執拗かつ微妙な隅取りが見られ、菩薩、女人の顔貌に 用いられる謹直な極細線、依文線に用いられる筆鋒を強調した肥痩線、羅漢部に用いられる筆鋒を微妙に調整した線など各種の描線の表現力豊かに取り混ぜている所に中世以降の表現方法が見られる。
やや人物のプロポーション等に形式化は見られるものの、各人の依部に施された金泥による文様も謹直であり、墨線の間に紅白の線を交互に入れる河波も、極めて丁寧に表される。
表現力に幅を持った画人により、古い涅槃図を祖本として恐らく南北朝時代に制作されたものと推察される。
伝来 ( 箱底墨書概意 )
この涅槃像は元々は「田谷寺」の什物で、院主の成栄阿闍梨、大勧進の重祐阿闍梨、小勧進の重泉坊が、永享5年(1433)10月5日に施入。 ( この趣旨が古軸にあったのを書き写した萬治4年《寛文元年.1661》までおおよそ229年か。) 田谷寺のあった所は書き付けを失っているので現在ではわからない。
養國寺の什物になったのは、天正2年(1575)2月吉日のことであった。 同6年(1578)7月に住持の如翁(但し太導の事か)勧進願主は、舜慶と要虎、小勧進の諸旦那は僧俗の男女の中から出て表幅師牛田金蔵が、古軸の通り箱書きを書写した。
元和5年(1619)2月、前住の道翁文教の代に表幅し終わった。想縁者 義光院の住持久讃公の寄進による。
表幅師は西村又右衛門。 涅槃図を表幅し奉ったのは当住持13代貞翁吟松 萬治2年(1659)霜月24日に表幅師京都御幸町の片岡庄右衛門でとりおこなった。
その他の主な寺宝
・ 釈迦牟尼仏図
・ 寒山拾得軸
・ 弥陀二十五菩薩来迎図
・ 弥陀三尊図