寺津について.../重蔵山 養國寺

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寺津について...

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寺津

 

寺津の地名の由来は、字の如く寺と津(港の意)の地と言うのが一般的な説であり、つまり信仰と漁業の町ということです。 

総称寺津地方は、北側に若王子(なこじ)、東北に徳永、そして八幡神社、養國寺、 妙光寺、寺津城趾、金剛院を中心にした旧寺津村地内と、南側に巨海(こみ) そしてこの地区の一番南の端、かつては半島の先であった刈宿を入れて総称寺津と呼んでいます。 

 

 

 

寺津漁港

 

なんと言っても寺津の中心は港です。 寺津のかつての繁栄はこの港からもたらされたものです。 漁業・海運業からもたらす富が、あの江戸末期から明治はじめにかけて活躍した「清水の次郎長」に名を連ねた親分「寺津の間之助」を生み出したと思われます。 

いずれにしても古くからの港であることは確かで、寛永元年(1624)以後の割付状に依れば船役銀518匁4分を納めていたと記録されており、 明治初めの頃は 漁船12艘 藻採船231艘で、主にエビ、ウナギ、海藻、アジ、カキ、ボラ、 黒鯛、などが主に漁獲されておりました。

地曳き網漁は明治13年から、打瀬網漁は同30年頃からで明治36年には寺津漁業組合ができました。大正の初めから海苔の養殖が始まり、又、同時期にカキの養殖も始まりますが、昭和34年の伊勢湾台風でカキの養殖は全滅してしまい、現在は海苔とあさり養殖が主な漁獲となっております。 

 

 

古居新田

 

宝暦5年(1755)千葉県大多喜藩 大河内松平氏の三河知行 小牧陣屋(吉良町)の代官が、平坂村役人と平坂湊の問屋ら8人に「古居新田開発御免書」を与えたのが始まりです。 発起人は平坂村の村役人が中心でありましたが、干拓海面は寺津村地先で、当時の寺津村は寺津出身の大河内松平氏領であったために、松平氏の出張役所の小牧陣屋へ干拓を願い出た経緯です。

当時の平坂湊は西に市川、新実、西小梛、新田、東に中根新田、が開発されていたので狭くなっていました。古居新田の開発は港をさらに狭める事になる、しかし新田竣工の暁には平坂村の属する西尾藩と寺津村の属する大多喜藩とで折半するということで大多喜藩は大変乗り気でありました。 

古居新田は明治15年「飛地及び錯雑地の地所はその所在の町村へ組み替えるべき」という県からの達しにより古居新田が無人家であることから寺津村へ合併となりました。 

 

 

中根新田

 

巨海(こみ)、刈宿(かりやど)の南端、北浜川に沿った三角形の新田を養永島新田と呼びました。干拓時はさだかではありませんが、慶長年間の頃であったようです。中根新田はこの養永島新田の地先にできた寄州を造成したものです。 

中根新田の最初の開発者は、名古屋の商人辰巳屋忠右衛門で、元禄3年4月汐留めに着手し、3年かけて完成しました。これを辰巳新田と呼び、6年後美濃の岩井屋佐兵衛へ権利が移り岩井新田と称し、つづいて豊田の中根勘兵衛が再開発権を譲り受け中根新田と呼ぶようになりました。
その後も尾張の福島庄蔵、遠州の藤田権十郎へと権利が移っています。

このことから中根新田の開発は地元以外の商業資本で行われたと言うことがわかります。その後天明7年になって、ようやく地元 三河国和泉村の都築弥四郎が中根新田を譲り受ける事になりました。 

 

 

松平信綱 (松平伊豆守) 寺津生まれの幕閣

 

松平信綱は慶長元年(1596)年に、寺津城主 大河内久綱の子として生まれ、その後、慶長6年 叔父松平正綱の養子となり、以後、松平を名乗る。 

慶長9年、家光誕生と同時に小姓に召し出され、元和9年(1623)年、家光が将軍になると、幕府の小姓組番頭に任ぜられ、以後伊豆守を称す。  寛永4年には一万石を拝領し、幕閣に参与する。 寛永12年幕府の老中に就任。 また寛永14年島原の乱が起きると、総大将として活躍、翌15年に乱を平定、信綱はこの功によって武蔵川城主となり、6万石(後に7万5千石)を賜る。

この他にも武家諸法度の改訂、鎖国の完成など多様な政策を実施し、幕藩体制の確立に大きく貢献する。 家光死去後も家綱を助け、慶安承應事件を処理し、明暦の大火後の復興にもあたる。

 


 

 

 

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